島に古くから伝わる風習や伝承を見聞きしていると、「海を見てはいけない日がある」といった実に謎めいた一文をよく聞くことがある。
人によってはその話の様態に違いが見られるのだが、“何か得体のしれない畏怖の存在が海からやってくる”ということに関してはほぼ共通のものとして語られているのである。
“それ”を見たものは狂気し、精神を崩壊し、または死に至る。
そんな伝承が古くから伝わっているのは伊豆大島だけではなく、伊豆七島にも形を変えずほぼ似たようなニュアンスが語り継がれているのだから実に興味深い。
その伝承は海難法師と呼ばれ、広く妖怪や幽霊の類として取り扱われているのだが、その取扱いについて疑問を呈する部分は多く存在し、また曖昧な要素を多く含んでいることは間違いない。
そもそもこの伝承自体、地域によって単に水難事故によって死亡したものの霊が島を巡るものとしたものだったり、悪代官を島から追い出したためにその悪代官の霊が島を巡るものだったり、悪代官を死に追いやった若者25人の霊が島を巡るものだったりと、巡る霊の対象そのものに違いがみられるのである。
いずれも霊は日忌様と呼ばれ、1月24日に海難にあったことからその日に島を巡り、その姿を見たものは不幸な顛末をたどるということは共通しているようだ。
“海難法師”と見ると普通は“かいなんほうし”と読むが、地元の人間は一様に“かんなんぼうし”という読み方をする。
そもそも死んだ霊が“法師”つまり狭義の意味で学識・経験を備えた僧侶に対する仏教用語、広義では僧侶姿の人物の呼称とあてがわれていることに違和感を感じるのだが、地元の人間の呼び方に則して考えるのであるならそれは“ひとりぼっち”の語源に由来する意味合いと捉えたほうがすんなりと頭に入る。
ひとりぼっち(身寄りや仲間が無く、孤独であること)の本来の漢字表記は独法師と書き、それこそ読みを“ひとりぼうし”と読む。
“ひとりぼうし”はあてもなく世の中を彷徨うことを指し、“だけ”というぼっちの意味合いを含むことから次第に読みがひとりぼっちに変わっていった。
つまり海難法師の法師は海難したものの霊ががあてもなくこの世を彷徨っている様相を現したもので、地元の人間が法師を“ぼうし”と読むことは仏教的な意味合いを排除したものととるほうが自然なのである。
あてもなくさまよう“かんなんぼうし”は1月24日にだけ島に現れ、島を巡る。
伝承の発祥地である伊豆大島泉津にある波知加麻神社には日忌様を祀る祠がある。
ただ地域によって日忌様という対象に違いがある中で、“1月24日”という共通点と、“海を見てはいけない=外に出てはいけない”という共通点を鑑みるとその逆の意味合いを考えた時本質的な部分が垣間見えるような気がしてならないのである。
泉津に伝わる恐ろしい伝承が、決まった日に島内で表沙汰にはできない“何か”が行われ、それを抑止するためのものであると考えるのは至極自然な考え方であると言えるし、風習や伝統というものはえてしてそういう意味合いを含む部分が大きいのは確かだ。
実際に泉津では昔、海難法師の日には外部からの人の流入を一切止め、村の入り口に番を立たせて徹底的に人の出入りを禁じたという。
“口裂け女”が塾帰りの子供を早く帰宅させるために親が作り上げた虚像であるのと同じ様に、畏怖となる存在を作り出しその恐怖によって人間を本来の目的に促そうとする伝説は数多く存在する。
そしてその一つが海難法師伝説と言ってもあながち間違った捉え方であるとは言えない。
もし海難法師の霊(日忌様)がそういった虚像として存在するのであれば、“外に出てはいけない”という部分こそまさしく本質的部分だと言えるのではないか。
恐怖によって外に出ることが出来ないという意味合いは、島の外部からやってきた人間に当てはめることはできないわけで。
その伝承がその地域のみで効力を発するものであれば、一般的に1月24日という旧正月における儀式的な日あいを汲めば島内のみで行われる儀式的な催事の秘め事を隠すことを暗に現わしているものなのかもしれない。
伊豆大島では以前に神棚に大麻を祀ったとして、複数の人物が逮捕されている事例が存在する。
その際大麻は宗教的な儀式の一部として用いられていたという。
憶測の域を超えることはないが、もしそうした“表沙汰にできない儀式”を事隠す虚像として伝承が伝えられてきたとするならば、恐怖や畏怖にあたる虚像が地域的な違いを含むことに特段矛盾点はないのではないか。
それは虚像が恐怖や畏怖に対するだけものであって、本質的な部分は外に出てはいけないという部分にあるからだろう。
つまり虚像にあてはまるものは決まったものではなく曖昧なものであって、それが地域的な差異を生み出している原因なのかもしれない。
そして異なった虚像のままその伝承だけが現代に残り、本質的な部分は形を変えずに残っていったのではないだろうか。
日忌様の発祥は江戸時代に起源を発するものであるのだが、全く時代背景の異なる波知加麻神社の敷地内に祀られていることも謎である。
「波治加麻」は元は波治という地の山間部という意味で「波治ケ間」という地名に由来したものであるらしいが、ケ間の部分がなぜ加麻に変化したのだろうか。
古い記録によれば、八可間、波治竈、羽路釜、蜂竈、と複数の当て字が用いられていたようだが。
波治・波知の違いについてもおそらく当て字の違いによるものなのだろうが、正式な社号は波知を用いているようだ。
波知加麻神社は伊豆大島泉津不重にあり、読みは不重はフジュウと読む。
伊豆大島は地名が難解なものが多く、有名なところではクダッチといったカタカナ表記の地名も存在し、その意味について不明なことから、おそらく何かしらの言葉が訛ったりして変化していったものが用いられていると思われる。
古くからある地名には最初に“音”が存在し、その後に当て字として漢字が与えられるのだが、伊豆大島の場合漢字が与えられずに音の読み方がそのままカタカナ表記として残っている地名が数多く存在している。
そう考えれば、波治ケ間という地名も元はハチカマという元の音のみが存在し、その後に当て字として漢字が与えられたのだろう。
元の音についてどのような意味を持つのかは知る由も無いのだが。
差木地や野増にはこういったカタカナ表記の住所が多く見られ、当て字が与えられていないものが多く散見できる。
ちなみにこのようなカタカナ表記の地名が残るのは伊豆七島でも伊豆大島だけで、新島や利島、八丈島等の他の島々では全て漢字があてがわれカタカナ表記の地名は存在しない。
なんとも謎多き島なのだが、そんな島の発祥に関わる古社がパワースポットと呼ばれるようになったのは特に不思議なことではないかもしれない。
はてさて、我々はそんな島一番のパワースポットに足を踏み入れ、翌日の釣りのリベンジをするべくパワーを頂戴していたのであります。
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